人生楽しく
お釈迦様は今から二千六百年ほど前に、インド北部の釈迦国の王子としてお生まれになり、何不自由ない生活を送られていました。
ある時、城外に出る際、東の門から外に出ようとした時、やつれきった老人に会われました。また別の日に南の門を出たら、今度は、悲壮な病人に会いました。さらに西の門を出た時には、悲しみに満ちた葬式の列に遭遇したのです。そして最後に北の門から出た時、バラモンが修行している姿を見られました。
この時、お釈迦様は、生がある限り死があり、生老病死からは誰も逃れられないという現実に気づかされ、後に出家されたと伝えられています。
人間は一度生まれたら一日一日老いていき、時には病気もし、やがて死を迎えるのです。
また、人間は一人で生きていくことはできません。助け合い、支え合い共存、共栄していかなければなりません。共同社会の中では、自分の思いばかりを主張していては話はまとまらずに争いの原因にもなりますので、譲り合ったり、我慢したりせねばなりません。人生は十中八九、不如意と申しますが、自分の思い通りにならなかったり、人間関係のもつれや不意の事故、病気など、さまざまな苦しみの中で生きていかねばならないのです。
では、そんな現実の中で、私たちはどのような生き方をすれば良いのでしょうか。それは、いかに心を豊かにして生きていくのかということが大切になってくるのです。
お寺の活動を通じて、いろんな方とおつきあいしていく中で、どういう方が豊かな幸せな人生を送られているだろうかと思って見ていますと、やはり、常に感謝の気持ちを持たれている人が一番素敵に見受けられます。また、常に前向きな考え方、生き方をされている方が、生き生きと輝いて見えます。
例えば、「もう九十一歳」「まだ九十一歳」と思うかだけでも違ってきます。「もう」と言えば先は短く、人生も終わりと言った感じです。「まだ」と言えば、人生はまだまだこれから楽しもうと前向きに感じられます。考え方や気の持ち方一つで、人生観は大きく変わってくるのです。
まだ九十一歳と言われたそのご婦人は「私は『あいうえお』で生きています」と話しておられました。
「あ」は、安眠でゆっくり休むこと。
「い」は、色気を忘れず生き生きと生きること。
「う」は、運動し日々体を動かすこと。
「え」は、笑顔を常に忘れない。
「お」は、おしゃれをすること だそうです。
この方のように、何事に対しても常に「もう」ではなく、「まだまだ」という気持ちで前向きに生きたいものです。
また、私の尊敬する人の一人に、愛媛県在住の仏教詩人の坂村眞民先生がいます。平成十八年十二月十一日に九十七歳で亡くなられましたが、最晩年まで高齢になっても近くの重信川で世界平和を祈り続けられました。
人間は年を取って体の機能や動きは衰えてきますが、気持ちや心まで落ち込ませていてはいけません。老いていろいろなことをあきらめるのではなく、眞民先生の「念ずれば花ひらく」という言葉を胸に私たちは、幾つになっても、常に前向きにしっかりと生きることを忘れてはなりません。
お大師様は密厳浄土の実現と、即身成仏を説かれました。これは死んでから浄土にいくというものではなく、この世に生きたまま仏の心になり、この世が浄土のような美しい幸せな世界になるということです。お大師様は生きている今こそを最後まで精一杯に生きることが大切だと教えているのです。
また、お大師様は相互礼拝、相互供養を説かれていますが、自らの生かされている命に感謝して、人間同士お互いが拝み合い、助け合い、支えあいながら生きていくことの大切さを説かれています。
ありがとうの感謝の気持ちを持って家族や周囲に和顔愛語で接していくことが大切です。そうすれば臨終を迎えても「いい人を亡くして残念」と惜しまれ、あなたの名前がいつまでも人々の心に生き続けることでしょう。
単なる長生きでは意味がありません。本当の長生き=「名が生き」を目指して、豊かな人生を送りたいものです。