大師のみ教え
「真言宗の本尊さまは何ですか?」とよく聞かれますが、お大師さまは「それは法身大日如来である」とお答えになられます。つまりこの大宇宙そのもののはたらきを大日如来の大生命体とし、ご本尊として仰いでいるのであります。この現象世界、森羅万象草木にいたるまですべてが大日如来の生命そのものなのです。私たちは目の前にある木の仏像を拝んでいるわけではありません。この大宇宙の本体・すがた・はたらきがシンボライズされたものを拝んでいるのであります。
大日如来の光明は、昼夜の区別なく遍く照らして無明煩悩の暗雲をも輝かせ、大日如来の慈悲は、あたかも太陽エネルギーの如く草木をはじめ一切の生物を浄化生育させます。太陽は雲に覆われると見えなくなりますが、大日の光は永遠不滅に影をつくることなく照り輝きます。その性徳はあたかも太陽に似ていますが、太陽をも照らし、はるかに太陽も越えているから「日」の上に「大」を加えて「大日如来」というのであります。
さらにお大師さまの教えは、あなた方がこれから仏になるのではなく、また覚りが別のところにあるのでもない。今生きているあなた方自身がすでに仏であり大日如来なのですよ、というのであります。「ええっ、何でこんなに欲深く、罪深い自分がすでに仏でありましょうか?」と思われる方も多いでしょうが、まさに皆さまの中には仏性、即ち仏になる種がすでに具わっているのであります。
『雲晴れて のちの光と思うなよ もとより空に有明の月』という歌にありますように、ただ、貪(執着)と瞋(怒り)と痴(迷いや苦しみの原因に気が付かないこと)の三毒の雲が心にかかっているから、自分の中の大日如来が見えないだけだというのであります。
三毒の雲とは一言でいえば人間の「欲」であります。他宗ではこの三毒の雲を払うことを教えますが、お大師さまはこの「欲」も必要なんだと教えます。蓮花は汚泥に咲きますがそれに染まることなく、いやその汚泥をもエネルギーとして美しい花を咲かせます。渋くて食べられない渋柿もつるして干すだけで甘い甘い柿になります。お大師さまの教えに「煩悩即菩提」という言葉がありますが、私たち煩悩深き人間も大日如来の慈悲と知恵の光を浴びますときに、雪晴れて私たちの中にあります仏の種が芽を出し姶めるのです。
そのためには三密の行が必要であります。「三密」とは、身密(からだ)、口密(言葉)、意密(こころ)のことであります。日常生活の上で、身密の行とは「相互扶助(助け合うこと)」であり口密の行とは「愛語(やさしくて丁寧な言葉で語り合うこと)」であり、そして意密の行とは「相互礼拝(いろんな人や物に支えられて生かされている事に感謝し、お互いに信じあう心)」のことであります。
日常生活におかれまして「相互扶助」「愛語」「相互礼拝」の精神に心がけられまして、一日でも早く皆さまの心の中にあります仏の種が芽を出し、美しい花が咲きますことをお祈り致します。