〽もう⤴こりた⤵・は・・忘己利他とも書きます〽

私たちの生活の中でお話しをしている時~思いだしたように、「あの人には・・・もう~こりた、あんなにお世話をしたのに裏切られ~残念でした」などと、経験のある方は少なくないと思います。
日常使われている言葉の中には、内容によっては関知替えをして使っていることもあるのではないでしょうか。
今回は「もう⤴こりた⤵」と言う言葉に付いて角度を変えて考えて見たいと思います。
この言葉・・・「忘己利他」と書いて(もうこりた)と読む教えがあります。実はこの言葉は、今を去る天台宗の開祖、最澄伝教大師の言葉としてお示し頂いたものです。
その内容は~国の宝とは、いったい何であろうか。それは、立派な宝石などではなく、仏道(真理)を求める「道心(どうしん)」である。▶道心をもつ人を名づけて国の宝とする。
昔の人(古哲)は言った、「一寸や一尺のきらめく宝石は国の宝ではない。自分のいるその場所で、なくてはならない ▶人として最善を尽くし、光を放つこと。これこそが本当の国の宝である」と。
また、昔の徳の高い賢者も言った、「口で立派なことを言うだけで実行できない人は『国の師(先生)であり。実行はするが言葉で説明できない人は『国用(こくよう)(国の財政を支える意)』である。
▶実行もでき、言葉でも正しく導ける人は『国の宝』である」と。この3つのタイプのほかに、言うこともできず、行うこともできない人間がいる。このような者は『国の賊(害をなす者)』である。
仏の教えを守る道心をもつ仏の子らは、西の国(インドや中国)では「菩薩」と呼ばれ、東の国(日本)では「君子」(徳と人格がすぐれた立派な人の意)と呼ばれる。
嫌な仕事や苦労は自分の方に向き、良いことや成果は他人に譲る。自分のことを後回しにして、他人の幸せのために尽くす(忘己利他)「自身をさておき、他の人びとの利益~幸せを祈る」・・・これこそが仏の教え~仏の願いであり慈悲の極みであるとお示し下さった言葉でした。 素晴らしい言葉ではないでしょうか・・・・・
天台宗の開基より82年後~此所仁和寺は宇多法皇により開山されました。
弘法大師空海を師として~僧名空理と改め密教の教えの道場として諸堂を建立されました。その中に立派な道場として八角円堂の建立に当たり願文(がんもん)を奉読されお誓いを立てられました。
時に延喜4年(904)3月でした~その内容とは・・・・・
仁和寺境内に八角堂を建立し、内部には金剛界曼荼羅の成身会(じょうじんね)にあらわれる仏菩薩三十七尊や、印相や密具を持った本尊を安置しました。これはすなわち、空海の弟子である宇多法皇が敬い慕う基となる道場であり、初夜、後夜、日中の礼拝の道場です。
しかし、そのお徳をしたう為、又、懐(いだ)きしたう為に、山稜(さんりょう)の近辺を整え、四季に緑をたもつ樹木などを眺める場所を求めました。その念(おも)いは、崩御(ほうぎょ)された光孝天皇の意(こころ)を思っての事なのです。今は春、延喜4年(904)3月26日執行されます。
自然法界の空間を、心静かに思いをめぐらし、そろった声の響きは、風に任せて広くすみずみまでゆきわたる。舞楽が披露され、それは薄紅色(うすべにいろ)の桜の花びらが盛んに散る頃、夜明けにはウグイスが声をあわせて鳴き、舞の衣装は桜の花の中にひるがえる。歌曲の声が混じる中、いまにも多くの仏たちが騒ぎだし、天上に住むとされる神仏が地上に来臨(らいりん)してくれるでありましょう。
空海の弟子である私は、今は仏の弟子となって、一身に修行善業をなして、あまねく全ての人々の幸福利益(りやく)となる事を祈ります・・・・。と祈りを込めお誓いされたのでした。
私たちはお祈りをする姿は、両手を合わせ眼を閉じて心静かに念じます。お身体にご障害が無い限りその姿は世界中の人々は変わりの無い姿です。
両手を合わせることは~良いことも、悪い事も出来ません。何にも出来ない姿によって・・・・その心に秘められた願いの第1として「・・・生きとし生けるもの全てが幸福でありますように・・・」と祈りを込めることこそ「慈悲」の心であると釈迦世尊が説かれた教えでありました。
教えの表現は異なっても~今あるこの世の幸福とは何を持って幸せなのか・・・・そのエッセンスを感じて頂きたいと切に重ねて願っています。
ではまた・・・・ 礼拝


