自ら心を清らかに

12月に入りますと、誰しもが心忙しい思いに駆られます。過ぎし一年の総決算が一段と重みを加える時です。
さて、12月の花暦と言うと、水仙があげられます。楚々とした姿かたち、上品な薫り、私も水仙は好きなお花の一つです。
水仙は自尊の姿をしています。ジソンとは自ら尊しと書きます。天上天下唯我独尊と仰せられたお釈迦さまのみ心に通うものです。これは決して相手を見下げる意味ではなく、自分の本来の価値にめざめ誇りを持ち、卑屈な心など捨て去ってしまうことです。
青天白日(せいてんはくじつ)の下、とにかく前進する信念ともいえましょう。仏教徒として基本的な見方になります。また、自尊の外に、清楚の意味もあります。きれいでさっぱりとしていることです。しわだらけになったズボンにアイロンをあてた後のようなもの。
ほこりだらけの頭髪をシャワーで流したようなもの。小ざっぱりしていることは、相手にも好感を与えます。
お釈迦さまのお言葉「自淨其意」(じじょうそい)が当たります。「自ら心を清らかにせよ」との仰せは、昨今の世の中の有様を見るにつけ思い当たること少なくありません。自らを卑(いや)しめ自らを不潔にすることは残念なことです。
すす払いも大事ですが、心のすす払い、小ざっぱりした新しい年を迎えたいものですね・・・・・
そこで、盆や正月に故郷に帰ることを「帰郷」(ききょう)と言わず「帰省」(きせい)と言う場合が多いようです。テレビニュースでも「帰省客でごった返す新幹線」などと放送しています。私は、そんなニュースの画面を見ている時ふと考えさせらたのです。
それは「帰省」というのは「かえる、かえりみる」と書くのですから、ただ単に故郷(ふるさと)に帰るということではなくて、帰って何かを省みるものでなくてはならない・・・という事です。
さっそく辞書をひらいてみますと「故郷に帰って親を見舞うこと」となっていました。なるほど日頃仕事や生活に追われて郷里の親をかえりみるゆとりを持てない人たちが、久しぶりに家に帰って親を見舞い、孝養に尽くすことなのでしょう。
しかし、もうひとつ掘り下げて考えて見ますと、帰るという字は仏教語の中に「帰元」(きげん)「帰真」(きしん)あるいは「帰命」(きみょう)「帰一」(きいつ)などと使われていますように、仏と私と一つになること・・・仏心にかえる・・・つまり「成仏」を意味しているわけですから「帰省」とは「帰郷」のように、ただ故郷に帰るだけでなく、親を見舞い祖先の墓に詣でて、その足跡をかえりみ、今生かされている自分の生きざまを、親や祖先と照らし合わせて反省してみるという~「宗教的」な意味に解したいものです。
ところで帰省の「省」は、もうひとつ「はぶく」とも読みますが、親や先祖をいかにして省こうかと知恵をしぼっている自称・現代人の増えているのも、寂しいことですが現実のようです。
しかし、日本古来の良い伝統、美しい風習である「帰省」のこころを、どうか空洞化することなく後世に伝えていきたいものだと思います。
令和8年は午年(うまどし)は、情熱と行動力で突き進む縁起の良い年と言われています~重ねて皆々様のご多幸を仁和寺金堂・ご本尊阿弥陀如来さまのご宝前にて~お祈りしています。
謹んで合掌


