「微妙」びみょう~仏教ではミミョウと読みます。

仁和寺境内は桜の季節が落ち着き~紅葉やツツジ、青葉若葉の爽快な季節を迎えました・・・・お元気でお過ごしの事とご遠察申し上げています。
今月のお話しは~表題の如く、微妙の微(び)は感覚で識別不可能なものの事と訳されています~だから言い表しようのない美しさであり、たとえようのない思いに付いて考えて見たいと思います。
これを伝えようとするには、身(からだ)も心も一緒になって、同時体験をしなくてはなりません。それでも、次の瞬間に植物学者はどの系統の花なのかを知りたがり、花屋はいくらになるかと値踏(ねぶ)みをするでしょう。きれいな花のきれいさは永久に伝わることはないようです。
それでもなんとかそれを伝えたいと考えた方が釈尊でした~お釈迦さまは12月8日の明け方に、この世の真理を会得され悟りを開かれたのでした・・・・
しかし、数日間悩まれ・・・死にそうになるまでの苦行をしても得られず~運よく禅定(ぜんじょう)にたどりついて理解し悟ったけれども・・・この難解な理(ことわり)を理解し、それを実現する強固な意志を、一体何人の人が獲得できるのだろうか・・・徒労(とろう)に終わるのではと危惧されました。そこに梵天(ぼんてん)が現れて「いままで一人もいなかったのにあなたが悟った~それだったら必ず理解する人が出るはずだ」と・・・励ますのです。・・・・・・この一言から四十五年もの布教の旅が始まりました。
このあとの釈尊の行動がすばらしいのですが、一番自分を信用していない五人~「出家のとき、父王がつけた従者で六年間修行をともにし、苦行を放棄したシッダルタを軽蔑し見かぎった人たちです」を~最初の説法の相手に選んだのでした。その膨大な言行録はすべて聞き伝えですが、その人達それぞれに適切な言葉で仏教を語っておられます。
もちろん五人の弟子はその場で釈尊の弟子となりましたが~さらに、仏教のすべてが最高の弟子に伝えられる瞬間がまたみごとです。老いを感じられた釈尊は、ある時~後継者を決めたいと高座につかれました。だれを指名するか固唾(かたず)を飲んでいますと、釈尊はにっこり笑って一輪の花を掲げられました。多くの弟子は何のことか分からずポカーンとしていましたが、ただ一人、迦葉尊者(かしょうそんじゃ)だけがにっこりと微笑(ほほえみ)みを返しました。釈尊は迦葉(かしょう)に席を譲って、その日の説法を任せられたということです。
これが「拈華微妙」(ねんげみしょう)という・・・・言葉を使うことなく、心から心へと通じ合うことを云うのであります。
思い起こせば~母親が赤ん坊を抱いて、優しいお顔で赤ん坊の顔を眺めた時~誰が教えたのか・・・にっこり笑顔で答えてくれる姿が良くあります。
きっと~この姿こそ、母が仏であり~子供が自身だとすれば、母と子供の心には無償の慈悲、愛によって利益を求めない姿と心が交わされている~もっとも美しい心ではないでしょうか・・・・・
これこそが~「拈華微妙」(ねんげみしょう)という言葉の瞬間が想像出来ると考えます・・・・。
仁和寺では毎朝金堂にて「理趣経」(りしゅきょう)という真言宗には大切なお経文がございます~そのお経文の中にも「煕怡微咲」(きいびしょう)と云うご文「もん」がたくさん出てまいります~み仏さまがにっこり笑い説法する情景であります。
仏の教えは、私たち凡夫が「苦」を離れ「楽」を得るためのおしえであり、言い換えるならば「心のやすらぎ」すなわち「安心」(あんじん)を頂くための教えであります。
しかしながら~きっと・・・避けることの出来ない~日々悩みのない人はきっとおられません・・・・ フト~そんな時・・・山口県長門市・金子みすずさんの素敵な詩に出会いました・・・・
わたしがさびしいときに よその人はしらないの
わたしがさびしいときに お友だちはわらうの
わたしがさびしいときに お母さんはやさしいの
わたしがさびしいときに ほとけさまはさびしいの
きっと~あなたが寂しい時は、いつもそっと側には~み仏さま・お大師さまが寄り添ってくれています・・・・・祈り
ではまた・・・・ 南無大師遍照金剛


