お盆がやってまいりました
私たちは、暖かい日ざしをこの目でたしかめていますが、実は私の目は、真っ暗闇の中では、何一つ見えません。
私の見えるのは、太陽の光をいただいて見せて頂いているのです。私たち人間はどうしても、俺の努力で、俺が俺がの暮らしばかりしています。
しかし、気がついてみれば、この命も、祖先からの尊いご縁を頂き、命を頂いたことは承知の如くであります。私が生きるためには、天地自然の恵み、太陽や、空気や、水や、食物にしろ、すべては私の力では作れない~私の力では及ばない世界の中に生かされている~私のすべては、その恵の中にあるのです。
世の中は、おれがおれがの「が」をすてて、おかげ~おかげの「げ」でくらせ。この限りないおかげ、み仏さまのみ前にすなおに手を合わせ、感謝して暮らす日ぐらしこそ、幸せへの第一歩であり、すべてであると思います。
おかげ~おかげさまの中に生かされていることを、心の底から気づかせて頂くご縁に、素直に合掌したいものです。
八月は「盂蘭盆」(うらぼん)といいます~餓鬼道(がきどう)に堕ちて苦しんでいる母を救ったお釈迦さまの弟子、目蓮尊者(もくれんそんじゃ)の孝養物語がその源であることはよく知られています。
さて、母が子に対する愛情は、観音さまの慈愛にもたとえられる程に尊くも美しいものですが、なぜその母が「餓鬼道」に堕ちなければならなかったのでしょうか。
「父母恩重経」(ふぼおんじゅうきょう)には「父母の恩重きこと天の極まり無きが如し」と再三説かれながらも、次のような一節もあるのです。
「若しそれ子のために、止むを得ざることあれば、自ら悪業を造りて悪趣(あくしゅ)に堕(お)つることを甘んず」と。
母親の「業」罪を諭(さと)していると思われる言葉です。
目蓮さまの母も、多くの世の母と同じように、わが子可愛さから餓鬼道(がきどう)のような行いに走ったり、他を省みることのない一生を送ったのかもしれません。
「母性愛」こそ美しく、その愛があればこそ子も育つのでありますが、悲しいかな「我が子」のみを愛し、他を愛することが出来ない、母の業に気づかない母があるとしたならば、盂蘭盆(うらぼん)の教えから深く学び反省したいものです。
お盆の教えとは、母のような強くて美しい愛を、より広く多くの人々に注ぎ念じていく、いうならば仏の慈悲心を「布施行」という実践に移すみ教えなのです。
笑顔を以てご先祖さまをお迎え下さい。
合掌