いつ死ぬつもりか
明治時代の頃、京都知恩院に福田行誡上人という浄土宗の立派なお坊さんがおられました。
そのお上人さまは、日本仏教会の先頭に立ってご活躍されたお方の一人です。
ある時、行誡上人は真言宗の雲照和尚から真言秘蔵「ひぞう」の秘密念仏の奥義を伝承されました。その法は大切な秘法であるので、その雲照和尚は弘法大師お一人であると定めがあるので是非~教えにしたがって高野山にお参りされること勧められました。京の都より長い旅をされ、高野山の一里手前の花坂にお着きになって、そっと腰を下ろし一休みされたました。そっと高野山を仰がれてお詠みになった和歌~「高野山(たかのやま) 山にはあらで 蓮葉(はちすば)の 花坂登る 今日の嬉しさ」と、高野山にご入定なっておられるお大師さまのお徳を讃え有り難く念「おも」いをはせる行誡上人さまのお姿が脳裏に浮かぶようです。
その行誡お上人さまが知恩院にておられます時に、ご信者で商売をしている方が毎朝必ずお参りに来られていました。
商売が繁盛して忙しくなってきたので、毎朝のお参りがつらくなってきました。そこでどうしたものかと考えていた所、お上人さまは~「お念仏は一声でも大きな功徳がある」といつもおっしゃっていたことを思いだしたのでした。よしこれはいいことを思いついたと思い、その信者は翌朝知恩院に行って、「実はこの頃商売が繁盛して忙しくなってきて、お念仏を唱え申す暇がなくなってきました。そこでお上人さまはいつも、お念仏は一声でもご利益があるとおっしゃっていることを思いだしましたのですが・・・そこで私は、死ぬ前に一声お念仏を申せばいいと考えたのですが、いかがでしょうか」と尋ねました。
するとお上人さまは「ああそれでいいよ」とおっしゃるではありませんか。ああヤレヤレこれでよかったとホッとしながら男が帰ろうとすると、「ところで、あんたいつ死ぬつもりや?」とお上人さまがポンと声をかれられました。
「確かに死ぬ前に一声念仏を申せばいいか、肝心の死ぬということは、はるか先かもしれんが、ひよっとしたら今晩かもしれん、いやこの帰り道かもしれん、いやいや今こうして話しているうちに死んでしまうかもしれんじゃないか。人はいつ死ぬかわからんのじゃ~だからそう思って今申すことが結局大事なことなのである。今申せ~今申せ~今申せ」と言われました。
そのご信者は元来がお念仏の信仰心の厚い方でありますから、そのお示しに頭を垂れ深くうなずき・・・いっそうお念仏をされたと言うことでした。
信仰心はこころから信じきれる教えに出会う~母親と赤ん坊の関係と同様、母親が仏であり赤ん坊は自分である。心から信じきれる関係こそ念仏であり、真言宗ではご宝号(ほうごう)南無大師遍照金剛と祈る真(まこと)の真言(ことば)です。その行為と祈りを・安心(あんじん)・と言います。
つまり、私たちは今日の命が大切であり「今」が一番大切であることを振り返り~何を祈ることが大切か両手を合わせ考えて見ませんか。
ではまた・・・・合掌