苦しみを受け入れるとは諦「さとり」なり
私たち仏教徒が静かに座り、或いは御詠歌、和讃を唱え、お経を唱えるは、いったい何のためにするのでしょう。
そのご利益とは何なのか~いうまでもなく仏の教えは、私たち凡夫が「苦」を離れ「楽」を得るためのおしえであり、言い換えるならば「心のやすらぎ」すなわち「安心」を頂くための教えであります。
つまり、これからの修行は何もその「安心」を頂くための方便であると言っても過言ではありません。ところが、なにか「苦」を離れることを、貧困や病弱、そしてさまざまか災難などの苦から逃避することだと勘違いしている方も多いのではないでしょうか。
よく知られた逸話でありますが、良寛さまがある人から「災難を免れる方法は」と問われて「災難に遭(お)うたら災難に遭(あ)うがよろしく、死ぬ時は死ぬがよろしく候(そうろう)」と答えたと伝えられています。
仏法「安心」すなわち苦を離れるという意味は、さまざまな苦痛をそのままに「信」によって「悦び」に変えていくことであり、それが苦からの解脱即ち「楽」を得るということであります。「我れ苦痛によりて深く菩薩権化の慈悲と受けとめてその試練を拝んでいくところに真の救いがあるというのです。「流れる水は、障害にぶつかって百倍の力を発揮する」という言葉もあります。
また経典の中には「苦によって信がある、信によって悦びがある」ともあります。このようにして、最大の苦である「死」すらも、悦んで受けいれることが出来るというのか仏教の「安心」であります。
しかしながら、現代はストレスの時代と言われています。
特に男性に多いのが、会社の新しい機械についていけずに悩む「テクノ症候群」、上司と部下にはさまれる「サンドイッチ症候群」。
女性に多いのが、自分の人生を子供や夫につくすことに一生懸命だったのに、子供はいつの間にか成長独立し、夫は会社人間で、気が付くと自分の巣がからっぽであることにショックを受ける。「空の巣」と書いて「空巣症候群」等、数え上げればきりがない位です。
一体どうしてこういうことになるかというと、いろいろな原因はあるでしょうが、結局は生き方の指針がないからだと京都高雄病院長の中村仁一先生はおっしゃっています。そしてその生き方の指針こそ、信仰でなくてはならないと続けられます。
まさに信仰とは、生き方なのです。私たちが「生き方がある」ということは、「生きていく方向がある」、つまり、行き先がはっきりしているということです。
自分が旅行する時は勿論、他人がお使いに行くのにさえ、「どこかへお出かけですか?」と行き先が気になるのに、肝心の自分が生きて行く方向を知らずに・・・いや、苦にさえならずにいる。考えてみると、恐ろしいことです。
だから、生活に統一がなく、刹那的でバラバラであり、そこにストレスが生み出される要因があるのではないでしょうか。「生き方」を見つけるということは、一朝一夕に出来るものではありません。でも、その心を起こさなかったら、いつまでたってもまた出来ません。お互いに自分の生きてきた道を反省しつつ、究極の「生きていく道」を見つけていきたいものです。
ではまた・・・・ 合掌