仏教から何を学か | 世界遺産 真言宗御室派総本山 仁和寺
今月の法話
今月の法話
24/06/01

仏教から何を学か

一口に仏教と言いますが、それを読み下すと、二つの読み方が出来ます。

初めに「仏が説いた教え」で、次が「仏になる教え」です。初めの読み方でいう「仏」とは、お釈迦様が説いた教えを「仏教」というわけです。また後の読み方は「他の誰でもない、この私が仏になるという教え」という、ここには仏教の目的がはっきり表現されています。

すなわち仏教の目的は「仏になる、成仏すること」なのです。ただ注意することは、ここでいう「仏になる」とか「成仏すること」ということは、ちまたで言われている「死ぬ」ことでは決してありません。「覚る」ことです。覚った方を「仏」というのです。

お釈迦さまの教えでは、人は修行によって「仏になる」ことができるのです。お釈迦さまも修行によって、「人」から「仏」になられたお方です。この点こそが、仏教の最大の特徴であり、私自身は仏教が一番大好きな理由の一つです。

お大師さまの甥にあたる弟子に智泉法師、御年37才の死に直面したときに残されたお葬式のお別れの言葉の中に、「哀(かな)しい哉(かな)、哀(かな)しい哉(かな)、哀(あわれ)の中の哀(あわれ)なり。悲(かな)しい哉、悲(かな)しい哉、悲(ひ)の中の悲(ひ)なり」と、お大師さまがお書きになられた文章の中で、もっとも人間的なものだと感じています。

この悲しみに、当時を想像すれば、どんなに修行を続けても、どんなに悟りをひらいても、身近な人の死に対して素直に自分自身の弱さを肯定する潔「いさぎよ」さがあってよいと思います。もしも、共に泣いてくれない仏の存在などないと思うのです。時には、泣いて泣きまくる日々があってもいいのではないか・・・・・

そういった日々さえも永遠に続くわけではなく、大欲の考え方に照らし合わせれば「大泣」もあると思います。

勿論、それは個人の優れた能力や言葉に絶する修行があることは当然ですが、それでも仏教では原則的に「人」は「仏」になれるのであり、それを人生の目的にすることの大切さが、私が学んだ第一点でもありました。

しかし、「人」が「仏」になることは至難のワザだということも確かであり、その目的のためには、人生の全てが修行にならなければなりません。

つまり、私達の人生は「仏」になるための歩みですから、その時、その時を大切に生きることが大事だということが、私が仏教から学んだ二番目の点でした。

そして苦しい時も、「仏」は絶対に「私」を見捨てない、いつも見守っていて下さるという「安らぎ」が私が仏教から学んだ三番目の点でした。

 ~こ首傾け 会釈した 笑顔の人の 美しさ~  この想い姿を安心「あんじん」といいます。

 ではまた・・・・お体大切にお過ごし下さい・・・南無大師遍照金剛