見えぬもの | 世界遺産 真言宗御室派総本山 仁和寺
今月の法話
今月の法話
22/10/01

見えぬもの

 大正時代の頃、金子みすずさんという童謡詩人がおられました。

 金子みすずさんは、昭和五年、二十六歳の若さで亡くなっていますが、有名な詩人、西条八十先生から、「若き童謡詩人の巨星」とまで称賛されています。

 その童謡詩の一つに【海の魚はかわいそう/お米は人につくられる/牛は牧場で飼われてる/鯉もお池でふをもらう/けれど海のお魚は/なんにも世話にならないし/いたずら一つしないのに/こうして私に食べられる/ほんとに魚はかわいそう】と、うたっています。

 今一つ「星」という詩に、【青いお空のそこにふかく/海の小石のそのように/夜がくるまでしずんでる/昼のお星は目に見えぬ/見えぬけれどもあるんだよ/見えぬものでもあるんだよ】があります。こうした詩に、作者がものに対する思いの深さ、心のやさしさを感じます。金子みすずさんの童謡詩は、小さいもの、力の弱いもの、名もないもの、あたりまえと思われるものの中に、尊いものをとらえて詠んでいます。【昼のお星は目に見えぬ/見えぬけれどもあるんだよ/見えぬものでもあるんだよ】と詠んでいることばにも、尊い心のひびきがあります。私たちは目に見えぬものはないと思いがちです。私たちの目は、真っ暗闇の中では何も見えません。光をいただいてはじめて見える、姿、形が見えるのも光のおかげです。慈悲の光は目には見えないものです。

 しかし、目に見えないものではなく、見えぬものなのです。

 お祖師さま弘法大師の言葉の中に「般若心経秘鍵」と云うご文に(仏法遥かにあらず、心中にして即ち近し、真如外にあらず身をすてて何くんか求めん)という言葉があります。

 仏のさまの覚り、真理は遥か遠くにあるのでなく、自分自身のこの身体そのものに備わっていて、決して死後にあるのではなく、今を生きる自身そのものが仏である事に気づく事をいうのであります。

 煩悩だらけの自身だけれど、欲望、煩悩から避けられない事を(諦)あきらめ受け止め受け入れる事こそ覚りというのです。

 釈尊は「少欲知足」という説法をされた。それは、欲望が起きた時、その欲望を少しでも少なくし足ることを知る。このみ教えこそ「ちょうど良い加減」中道の心得であります。

 例えば、毎朝小さな鏡に自身の顔を写し、にっこり笑顔で自身の顔に合掌しご挨拶します。「今日も一日此の身体をお借りします〜宜しくお願いします」と語りかけます。

 このような祈り方も如何でしょうか、此の世で一番大切にしなければならないものは、実は自身の身体です。きっと此の理に気がついた方は仏の心が解る「即身成仏」された姿なのです。 

 ではまた〜