土砂加持法要・・・光明真言の功徳 | 世界遺産 真言宗御室派総本山 仁和寺
今月の法話
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20/02/04

土砂加持法要・・・光明真言の功徳

 先般、少し調べたい事があって「ことわざ名言事典」(創元社・昭和53年発行)という本をめくっておりましたところ、偶然に『お土砂をかける』という項目を見つけました。解説には、
 『相手をおだててその気にさせること』「お土砂とは、土砂加持をした砂のことで、この砂を病気の者に授けると苦悩はたちまち去り、死者の遺骸や墓の上にまくとその罪障は消滅するという。また「お土砂」を死体にかけると数日経っても筋肉が強張らない事から、生きている人間にこれをふりかけるとたちまちグニャグニャになる。後略・・・」等の記述があります。「お土砂をかける」というのは主として、どの地方で使われていたのか分かりませんが、本の発行時、昭和53年には、まだ事典に取り上げられる程、一般的に広く世間に知られて使われていたというのが興味深い事です。

 私達の地方(佐賀市南部)は、御室派の6ヶ寺結衆があります。春の法要3日間を6ヶ寺が毎年順番に持ち回り、理趣三昧法要を勤めます。夏の施餓鬼も6ヶ寺順番に出仕いたします。

 その結衆の中に、高校大学を高野山の寺学生として過ごし、仁和寺で加行、その後また高野山の奥の院に十数年勤めたという、あらゆる行事に精通している住職がいます。彼の師父が亡くなる時のこと、危篤の報せを受けて急ぎ帰りましたが臨終に間に合わず、自坊に戻った時には先代は既に帰らぬ人になっておられました。合掌した手がもうガチガチに固まっていたそうです。そこで持ち帰った土砂加持の「お土砂」をかけたところ、暫くすると硬直がとけてクニャクニャと柔らかくなった、という話を何度か聴かされています。
 以前から似たような話は聞いておりますが、直接体験の話ではなく又聞きの話ばかりでした。実際に体験した人の身振りを交えての、「光明真言の功徳はすごいぞ」という話は、伝聞とは異なり、極めて信憑性の高いものです。

 さて、一昨年5月、当時90才であった私の母が自分の部屋で尻餅をついて圧迫骨折、その後入退院を繰り返すようになり、高齢でもありますのでそろそろかと感じさせるものがありました。私はぜひ、自分で拝んだ「お土砂」が欲しいと思い、結衆に諮り昨年三月の巡番法要には例年の理趣三昧にかえて土砂加持を修行いたしました。(3日間延べ24人の僧の出仕を得て「お土砂」を加持)そして予想のように5月に母が亡くなりました。亡くなる直前の意識が無くなった時から、お土砂をかけて静かな旅立ちを祈っておりましたところ、5月のことでドライアイスを入れましたので遺体は冷たくなってはおりましたが、死後硬直は全く見られず、手に黄疸が出かけていたのも消えて、実にしなやかな手指をしており、また顔色も全く穏やかなものでした。
 母の最期の心境は知る由もありませんが心静かな旅立ちであったろうと信じております。光明真言和讃に「いかなる罪も消滅し華の台に招かれて心の蓮を開くなり」と説かれている通りであったろうと思います。目の前に見る事実は、まさに「真言醍醐の妙教は余教超過の御法にて無辺の功徳具われり」でありました。

 不信の石のあるところ功徳の種が栄えないと言われます。とかく世間で、拝んで何になるのか、拝んで功徳があるのかとか、科学的根拠が云々といったことを耳にします。悪質な霊感商法や利益話は論外ですが、理屈を超えたこともある訳で、自分の目で見れば一目瞭然、事実は事実として何の疑いもありません。

 お大師さまも(付法伝第二)
「是くの如きの深法は信を以って能く入る、思慮分別をもって何ぞその底を得んや」という言葉を残しておられます。

 混迷の時代といわれる今、日々の暮しの中の癒しということも勿論大切ですが、人間にとって「死んだらどうなるのか、何処へ逝くのか」ということは、やはり最も大きな不安であることに変わりはないと思います。最期の最後の瞬間に、生きて来た自分の人生の長さ、重さにも匹敵する豊かな瞬間を得られるとすれば、その様な安心を得ることは翻って日常の暮しの癒しにも励みにもなるはずです。

 総じて、信じて仰ぐから信仰であります。信じて祈らなければならない、経典に説かれる様に、あるいは先賢の伝える様に、信じて行することが大切であると感ずるところであります。