生死
今日現代の生命科学は、いろんな生命の謎を次々と解き明かすと共に、同時にその生命の不可思議さを我々の現前に示してくれていますが、まことに生命というものは不思議なものであります。いうまでもなく、宗教にとって、生命観・死生観というものは本来その根幹であります。
我々現代人は、大きな懐疑を抱きながらも、今も「極楽浄土に往生」という生死観を引きずりつつ、現前の現代科学の不思議な生命観の前に立ち竦んでいます。そしてそれらがもたらす価値観・生死観の多様化の状況がそのまま、伝統儀式の崩壊・変化にも繋がっているようにも思います。
価値観の多様化というものは、あらゆる物事を、人々の全く自由な発想の下に晒します。一方わが国には、お盆の行事のように、死者を肌身に感じる儀式というものが幾つかあります。
お盆は、死者の御霊が帰ってくるという、ある意味今日では一見お伽話のような行事ではありますが、実は深い意味を内蔵しています。それは、亡くなって行く者の立場に立って考えてみれば、自分の姿が消えた後、誰もが後の遺族に望む事は、口に出す出さないは別として「今もそこに居るかのごとく」自分のことを常に肌身に感じながら生活してほしいということであり、人は誰しもそういう想いの中で亡くなって行かれるように思いますが、同時にそれは死に対するもっとも重要な安心の一つではないかと思います。
死者は他者の中に生きることを願い、他者は、身内である死者を自身の中で蘇らせつつ自身の守り神として共に生きることを願い、その自他一如の関係こそが供養の原点ではないかと思います。
「生」「死」「先祖」「供養」についていつも以上に思いをめぐらせていただきたいものです。