息災「そくさい」
人は誰でも元気でありたいと願い、仏様に無病息災を祈願します。
私がある病院にお見舞いに出かけた時、その同室の60歳ぐらいの方が、洗い場で小物を洗いながら、こまめに整理整頓をしておられました。「大変ですね~」と声をかけましたが、返答がありませんでした。
夕刻だったので、奥さんが来院され、「私が洗おうと思ったのに、ありがとう、無理をしないで下さい」~と心配されました。私が「ご主人はどこかお悪いのですか」と尋ねると・・・「口頭ガンでね、手術を初め、出来得る限りの手当をしましたが、声が出なくなり、食べ物は流動物を管で胃に流し込む状態でもう半年近くになります~あまり経過は良くありません、行く先長くはないと思います」と・・・涙声で話されました。
「主人が元気な頃は、酒、たばこも多く、自分の事は何一つ出来ず、手伝う事を知らない人でした。病気になってからは自分の事は自分でやり、人に頼らず、お手伝いもしてくれるし、健康に留意しながら、私にも大変気を配ってくれる人になりました」・・・涙を浮かべながら話されました。
人は誰でも無病息災を願いますが、一病を得て初めて健康のありがたさを知っては遅いのです。息災を願うのが自分であるならば、災いを止めるのも自分なのです。健康の大切さに目覚めることが、まことの息災だと私は思います。
来る11月23日は、「勤労感謝の日」です。「勤労感謝」の「感謝」とは、「祝日の改正に関する件」の調査報告書というものによりますと、「すべての人がすべての働きに感謝する」ということですが、「すべての働き」とは、何も人間だけではなく、天地万物の働きをいうのでしょう。
人間は一人では生きられません。大勢の人の働き、いや天地万物の働きによって、生きています。この働きを思い、感謝するのが、(勤労感謝の日)でしょう。私達の本山では、信者の皆さんと食事をする前に、食前の言葉・食後の言葉をいいます。
食前には「己の行為をかえりみ、この食物が如何にして作られたかを思う」等といって、ご宝号を唱えてから食事をします。
そして食事が終わると、「食事を終わりし時は、正しき食事の作法はそのまま修行の道なることを思うべし」といって席を立ちます。ここには、与えられるものへの感謝の心、その恩に報いていくことの大切さが、はっきりと表れています。
また「一日作さざれば、一日食わず」とあります。・・・これを解説すれば、「働かない者は食べてはいけない」ということではなく、働くのは生活のためだけでなく、務めをなすため、それは仏の願いをなすことであり、人々を幸せにすることを願う事でもあります・・・それができないら、食うべからずではなく、食べられないというのです。
このように「働く」ということの中に仏の願いを込め、また私達を取り巻くいろいろな「働き」の中に、仏の願いを読みとっていくならば、この世の中は本当に喜びに満ちた、幸せな息災なる世界になるのではないでしょうか。
働くとは・・・ハタを楽にする「周りを楽にする」と読みますと~働く意識が変わるのではないか・・・・
皆さまの息災を仁和寺より祈っています・・・合掌