不自由と不幸はどう違う
此の世のことを仏教では娑婆といいますが、その意味は「苦しみを忍んで生きる世界」ということです。
此の世が私たちの思い通りになれば何の問題もありませんが、なかなかさうはいきません。このように私たちの思いと現実とが違うことを苦しみといいます。しかし苦しみが全て不幸かというと、決してそうばかりではありません。なぜかといいますと、たとえ苦しみであっても、それに負けず、逆にそれをバネにして頑張ることが出来ることも事実だからです。
先日一人の老人が、路傍で泣いていました。わしは80歳になるが、生きるのがもういやになった。昨日、久しぶりに一番風呂に入った。まことに気分壮快で、あ~あ~長生きしてよかったなあ~。ありがたいと感謝しながら風呂を出ると~突然、風呂の湯が抜かれびっくりした。
老人の入浴した湯はきたない~と、息子の言葉が返ってきた。側にいたお婆さんが、「おじいさん、二人でゆっくり温泉に行きましょう」となぐさめてくれた。「物が豊かにして心なし」とはこのことを言うのでしょうか。世の中、自分勝手には生きられない事は、百も承知しながら自分勝手、自分本位の振る舞い~それが我が儘なのです。
今ある自分は誰のおかげか、父母の恩を頂き、この世に生を受け、多くの恵みによって育てられ、生きている。この尊いご縁の結晶を忘れるのは、ご恩ある老人に対する態度ではありませんね。老人の生活に、よろこびと、うるおいと、楽しみ、そして生きる力を与えてくれるもの、それは入浴なのです。貧しかった時代、何を食べても、何を作っても、不満と小言が多く、ほしいものはなんでも手に入る生活により、人間は自分を見定めることのできない、心の貧しい病人になりさがってしまいました。なんと悲しむべきことでありましょうか。
「老いて後 思い知るこそ 悲しかれ 此の世にあらぬ 仰げばおつる涙かな」~であります。
若くして亡くなった友人が、闘病中に手紙をくれました。「起こったことが問題ではない、それをどうするかが問題なんだ」と、即ち苦しみも、私たちの心次第で、必ずしも不幸にはならないということを学びました。
小学校五年生の脳性マヒの少年がこんな詩を作りました。【不自由と不幸についての校長先生のお話があった。ぼくたちは・体は不自由だが不幸ではない・それは心が元気だから、おとうさん、おかあさんがいる。学校で勉強が出来る、先生と友達と話が出きる、元気な心をつかって、これだけ答えを出した】小学校五年生で、しかも脳性マヒの少年が、不自由という苦しみも不幸だとばかり嘆かず、それを前向きに受けとめ、生きようとしているのです。
誰も好んで不自由になりたい人はいませんが、現実に不自由という苦しみを与えられた時は、それを前向きに受けとめるよう、元気な心を私たちも持てるようにしたいものです。これも仏の教え、娑婆の教えなのだと。
寒さ厳しき折お体大切に~ではまた・・合掌